微分積分席替え気分@東大

河合塾本郷校での浪人を経て東大に合格した文一生による、のんびりとした日常のブログ。

「兼サーできます」

という事を新歓期に標榜するサークルや学生団体の類は多いです。というか、よほどのことがない限り、大抵の団体ではこのようにアナウンスしているのではないでしょうか。実態としても、普通に兼サーしている人をいくらでも見かけることができますし、何なら完全に一筋という人のほうが少ないという場合も多いかもしれませんね。

 

僕自身いくつかの団体を兼ねていますし、それぞれで一定の役職を与えられています。どんな団体に入ろうかといろいろ考えていた入学時も、「兼サー可」というのは一定以上重視していて、単にお題目としてそれを宣伝するにとどまらず、本当に兼サーしている人がどれくらいいるのか、実際忙しすぎないのか、ということを出来る限り観察するようにしていたつもりです。

 

しかし、去年のいつ頃だったか、この「兼サーできます」という謳い文句がどの程度魅力的なものなのかということに対して、やや懐疑的な見方をするようになりました。

 

兼サー可能くらいならまだともかく、仮に兼サー推奨という団体があったらどうでしょうか。

 

当該団体一筋ではどうも満足できない人が多いようだから、ぜひよその団体で物足りなさを充足してくれ、というような気がしてこないでしょうか。

 

兼サー出来るということは、つまりそれだけ日程や精神的な負担に余裕があるということが考えられるため、裏を返せば、その団体に全身全霊を注がなくても十分立ち回っていくことが出来るということを意味するのではないでしょうか。

 

そう考えていくと、むしろ「兼サーできません」という団体の方が、どこか清々しさと熱さを感じられるような気がしてきます。うちに入ったら、よそにちょっかいを出している暇はない。忙しくなるけど、その分他所に行く必要もないくらい充実した活動や体験ができる。だから兼サーはできないんだ、と言われたら、グッと来るものがないでしょうか。

 

という以上のような発想は、どことなく終身雇用や兼業副業禁止という労働形態にも似ているな、と書いていて思いました。終身雇用とは要するに、その企業に骨を埋める覚悟さえしてくれれば、企業も責任を持って社員を養っていくというような感じでしょう。兼業副業禁止というのも、もちろん業務上の様々な機密情報を漏洩されては困ると行ったような意味合いもあるでしょうが、それだけには収まらない、自分のところに集中してくれ、というようなメッセージを感じ取れそうです。

 

果たしてどちらがいいのか、別にいずれかが目に見えて優れているということはないにせよ、少し考えてみるのも面白いなと思います。

 

いわゆる「意識高い系」の学生(僕の周りにいるのは「系」ではなく文字通り意識が非常に高い人ばかりで頭が上がりませんが)に限っていろんな団体を兼ねているイメージです。

 

複数団体に加入するメリットは上げればキリがありませんが、もし「自分はこの団体一筋、ここで自分のやりたいことはすべて実現する」というような人が目の前に現れたなら、それはそれで「意識高い」「かっこいい」し、実際に一定のメリットがあるのだろうと思います。

 

とここまで書いてきましたが、僕自身はやはり兼サーをしていてよかったと感じています。運動系と学術系の両方に所属しておくことで、雰囲気の違うコミュニティを確保できたし、単純に大学生活の彩りが豊かになりました。もちろん、工夫さえすれば、一方の所属団体において有志を募り、別団体としてではなく、あくまで所属団体の外局として毛色の違う活動ができます。また、運動系団体においても、やりようによって学術的社会的活動がいろいろ行えることに気づけば、真に一筋の人間になることもできたのでしょう。

 

というようなことをぼんやり考えている時間が大切だなと思う今日このごろです。タスクに負われず、娯楽もしていない、そんな空白の時間の重要性を噛み締めたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは~