微分積分席替え気分@東大

河合塾本郷校での浪人を経て東大に合格した文一生による、のんびりとした日常のブログ。

「読書感想文」に対する批判について

昨日、「読書感想文」がTwitterのトレンドになっていました。トレンド入りのきっかけは、国語の教員をされているという方のアカウントによる「読書感想文って必要なくない?」という趣旨のつぶやきだったようです。自分がメインに使っているTwitterアカウントの方でも、読書感想文不要論から始まる様々な議論が展開されているのを観測しましたが、大方は読書感想文に対する批判で、ある方は「無益かつ有害でしかないので速攻廃止してほしい。」さらには「ありとあらゆることについて感想文制度は廃止したほうがいい。」とまで述べていました。

 

僕は当ブログで「読書感想」をあげていて、先日も『教育格差』に対する感想を綴ったところですので、こうした非常に厳しい意見に少し抗っておこうと思います。先に結論としての意見を述べるなら、「感想文という課題を児童生徒に強要することには懐疑的だが、感想文を綴るという営み自体は否定できず、論文やレポートなどとの区別がついているならむしろ有用である。問題は、感想文にせよレポートにせよその書き方の作法、問いの立て方などが教授されていないことにある。」といったところです。

 

さて、前述の廃止を提案する方は、読後に抱いた解釈や感想などというものは一時的なものであって、感想文という形で紙面に固定してもその瞬間から陳腐化する、それよりも、読書によって得た経験・知見・知識を自分の中で整理して保管し、新たな発見に結びつけることが重要だ、という趣旨のことを続けてつぶやいていました。

 

まず「感想文という形でアウトプットしてもその瞬間から陳腐化する」ということですが、むしろ僕はアウトプットもせずに心のなかにとどめておくほうが陳腐化するだろうと思っています。これは以前読んだ『インプット大全』『アウトプット大全』にあったことですが、インプット後にすぐアウトプットすること、読書や映画鑑賞などが終わったあとにすぐその時の感情その他をアウトプットすることで、自分の考えを整理できるということでした。これは実際自分で実感するところです。また、形に残る方法でアウトプットすることで、あとから当時の自分の感情を振り返ることができるというのもとても面白い営みです。

 

ただし、自分自身、読書後になにかアウトプットしようとした時に、「単なるお気持ち表明」ではなく「自己の知識や経験と結びつけた感想や問いの設定」にしようと思った時に、どこに線を引けるのか、校舎を書くにはどうすればいいのか迷うことは往々にしてあります。特に文学作品において「問いを立てる」藤はどういうことなのか、未だに理解できていないところなので、そのあたりに精通した同級生に教わろうとしているところです。学部2年にもなってこの有様では、上野千鶴子先生が『情報生産者になる』のⅠー2「問いを立てる」のはじめの節、「作文教育の間違い」にて

小学校からの長い作文教育で、教師から「感じたことを、ありのままに書いてください」と言われたことはないでしょうか。こういう指導は、こまった教育だとわたしは思っています。 それより、『考えたことを、データをもとに、論拠を示し、他人に伝わるように書きなさい」という文章教育をすべきだと。

 という指摘も最もでしょう。この本では社会科学分野で通用する論文などを執筆する=情報生産者になるための手法を説いたものなので、こうした指摘が出てくるのも当然のことです。少なくともアカデミックの分野においては「感じたことを、ありのままに」では何の意味もありませんからね。

 

しかしながら、だからといって全ての分野で感想文が全く意味を成さないとまでは言えないはずです。そもそも感想文の内容が全て「感じたこと」だけで終わることなどあるでしょうか。その感想や感じたことというものは、従来の自分の経験や知識に裏付けられたものではないでしょうか。完全に無の状態から何かを感じ取るのではなく、むしろ自分の抱く関心と共鳴した部分について、特に強い感想をいだき、それについて綴るのが感想文というものではないでしょうか。少なくとも僕がこのブログでたまに書く「読書感想」はそういう類のものだと思っています。もちろん、こんなものに読む価値はないと読者の皆様に言われてしまえばそれまでですが、他人の感想を読むのが面白いと感じる層、書いている事自体に面白さを覚える層もいるはずで、上述のとおりアウトプットそのものに十分効力もあると思われる以上、私は今後も書くつもりです。

 

ただし、確かにその書き方を知らないままに適当に書かざるを得ないという現状は問題だと思います。また、あらゆるものについてのアウトプットの方式が全て感想文になってしまうというのも問題でしょう。つまり、使い所を謝ってはならないし、使うにしても丁寧なフォローが必要だということです。

 

さて、最後に、読書以外への感想についての批判にも個人的な意見を書いておきます。僕は川人ゼミでいくつかのFWを企画し、そのたびに感想を収集しています。もちろんその感想の練度は人それぞれですが、基本的には自分のこととして捉えた上での洞察が含まれていて、集めた僕は読んでいてまずタメになりました。会の運営方法についての意見、どのような話に特に感情を動かされたか、どこから学びを得ることができたか、などは次回以降の会の参考になります。また、単純に企画者として嬉しくなります。もちろん理詰めで考えていけばきちんとしたレポートをエビデンスに基づいて書いていったほうが良いのでしょうが、負担などを考慮しつつ、企画者(本ならのその著者)に感謝を込めて感想を書くことには意義があると思っています。という僕の感想でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは~