今週のお題「読書の秋」
ということで、今回は最近読んでいる本を紹介します。
『国富論』
「見えざる手」でおなじみのあれです。
以前紹介したかもしれませんが、僕は現在、大学の友人と読書会を開催しています。
ついこの間までは3人でやっていたのですが、1人がアメリカに行ってしまったため、今は哲学に造詣が深い残りの1人と継続中です。
その読書会で今扱っているのが、アダム・スミスの『国富論』です。
もともとは世界史で署名を聞いたことがあるくらいでしたが、読み始めるとなかなか面白い……と気軽に言いたいところですが、そう簡単にも行かないのが実情です。
まずは分量。今1番新しいのはおそらく講談社学術文庫版で、上下2分冊で合計1500pほどあります。しかも行間がそれなりに詰まっているので、そこら辺にある文庫よりは明らかにボリューミーです。
さらに、当然ですが内容も難しいです。おまけに訳も結構直訳調でして、スラスラと読み解ける感じではありません。だからこそわざわざ読書会で扱うわけですが。
内容としては、とにかく「自由最高」「見えざる手バンザイ」みたいな感じなのかと思いきや、これも必ずしもそういうわけではないのが興味深いところです。
そもそも「見えざる手」というフレーズは、約1500pという長編の中にたった1回しか登場しません。さらに言えば、講談社学術文庫版では、なんとこのフレーズが「見えない手」と訳されています。いやそこは変えなくてよかったでしょ。
よくもまあ後世の人々はこのフレーズを見つけて引っ張ってきたものです。
確かに全体としては自由競争に委ねたほうがよい、ということを主張しています。しかし、スミスは必ずしも「自由だけが全て」「国は何もするな」と言っているわけでもなさそうなのです。当時いいように利益を貪っていた既得権の打破、というのが根底にありそうでした。
また、スミスにはもう一つの名著『道徳感情論』というものがあります。世界史などではあまり出てきませんが、こちらではその名の通り道徳や精神的な問題について論じているそうです。『国富論』でも時折『道徳感情論』に関連する内容が出てくるんですよね。その辺りを考えても、単に自由競争を礼賛した競争主義者、血も涙もない自由主義者、というわけではなさそうです。
もちろん僕は経済学を修めているわけでも、今後修める予定があるわけでもないので、いい加減なことを言っていたらごめんなさい。
しかし、あまりに有名になりすぎたワンフレーズやイメージに囚われすぎず、原著を読んでみて、そこから自分がどう感じるかを大事にすることも必要なのかな、と思ういいきっかけになりました。
おまけ:なぜ「読書の秋」なのか?
ここからは単なるおまけです。
なぜ「読書の秋」なのか?「スポーツの秋」と両立させるにはいささかバランスが悪くないか?とよく思っていましたが、読書の秋はかなり由緒正しいもののようです。
唐代の詩人韓愈の読んだ詩で、
時秋積雨霽、新涼入郊墟。燈火稍可親、簡編可卷舒。
(引用:灯火親しむべし:意味・原文・書き下し文・注釈 - Web漢文大系)
秋になって名が雨もやみ、涼しさが丘に入ってくるようになった。明りに親しめるようになったので、書物を読むことができる。
大まかに解釈するなら、こんな感じの意味になると思います。久しぶりに漢文の和訳問題に取り組んだ気分です。
また、「秋の読書週間」が設けられたのは戦後で、これはアメリカの「チルドレンズ・ブック・ウィーク」が11月頃に行われていたのにならったとのこと。
(参考:公益社団法人 読書推進運動協議会)
アジア由来の伝統とアメリカの文化が混じった、意外に興味深い習慣だということが分かりました。
今後も大学生として、秋に限らずいつでも「簡編卷舒」できるようにしたいところです。
それでは~