人と話しているうちに自分の考えが整理される、相手に自分の意見を説明しようと話し始めるうちに自分のうちなる思いに気づく、ということが最近よくあります。
こんな感じのことは、前回の留学申請の時にも書きましたね。
自分が何を考えているかということを究極的に理解することはできないように思いますが、こうしたアウトプットの営みを通してそれなりに把握することならできそうです。
これはなんとか相手に伝えないといけない、という思いが強ければ強いほど、また焦っていればいるほど、こうした「話しているうちに」効果がよく発揮されるように感じています。
やはり、自分の頭の中だけでもやもやと考えているだけでは整理された思考と呼ぶことができず、外に引き出すことを通じて初めて形を帯び、知覚できるようになるということもあるのかもしれません。
とこの文章を書きながら、そういえば自分はこんなふうに考えていたのかと新たに気付かされています。
知覚できるような形になってはじめて云々という話は、友人との読書会である「木曜会」でカントの『道徳形而上学の基礎づけ』を扱った時に出てきた話と似ているのですが、はっきりと思い出せずモヤモヤしています。あとでノートを見返そう。
アウトプット至上主義的にはなりたくありませんし、以前どこかの記事で書いたように、読書のようにインプット色が強い営為でも、その解釈過程でアウトプットに近いことをしているというのもあるので、何でもかんでも外にわかる形で出さないといけないとは思っていません。
しかし、思考整理のために話してみる、書いてみるということは続けていきたいですね。それなりに意識して続けないと面倒になってやめてしまうのが自分の癖であることも承知していますし。
それでは〜