微分積分席替え気分@東大

河合塾本郷校での浪人を経て東大に合格した文一生による、のんびりとした日常のブログ。

日本語が難しい

何も、英語やその他外国語に比べて「日本語は難しい」と言いたいのではありません。むしろそういう奇妙な特別意識的なものは持ちたくないなと思っています。

 

言いたいのは、「母語たる日本語で書かれた文章だからといって、理解できるわけではない」というくらいのことです。文字を文字として理解し、一文一文を読むことは難しい文章であってもできます。これはある程度習熟した母語で読解するときには当然のことですよね。というか、そういうレベルに達したものを母語というのかもしれません。

 

ここ最近は、同期2人とほそぼそ続けている読書会(「木曜会」)や法学の授業の予習復習を通して、比較的難しい文章を読むことが多くなっています。これは人文社会学系に進んだ大学生の宿命とも言えるでしょう。

 

僕がそこで読む文章のほとんどは日本語で書かれたもので、幸い翻訳力などは求められません。しかしながら、どうしても呼んですぐに文意を理解するということはできていません。何度も返り読みをしてみたり、前後の論理的な流れを再確認したり、前提知識不足を疑ってググってみたり、それでもわからなければ友人に聞いてみたりと、様々なアプローチを駆使しなければうまく行かないこともしばしばです。

 

母語でかなりの難易度までの文章を読むことが出来るのは幸運なことですが、仮に母語だったとしても難しいものは難しい。ただ目に文字を入れているだけでは全く刃が立たず、右から左へと文字が流れていくだけの時間を過ごすことになってしまうことを痛感する日々です。

 

これに関して、『独学大全』なる分厚い本を最近出版した読書猿さんが書いていた記事の内容も納得でした。

diamond.jp

読書という営み自体が多分にアウトプット的要素を含んでいるというのは、一筋縄では行かない文章を読めば読むほど実感できることな気がしますね。もちろん、その上でアウトプットを意図的にしていくことにも意味はあると思いますが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは~